第1回 序章 私がそもそもクラゲの研究を始めた動機
1.世界の海はクラゲだらけ?
私は元々海洋生物、主として浮遊生物(プランクトン)の生態学的研究を専攻する者で、海洋生態系における親生元素(炭素、窒素、リンなど生命体を構成する主要元素のこと)の物質循環過程を知ることで閉鎖性内湾における有機汚濁機構の解明を目指してきました。しかし、私に限ったことではありませんがクラゲのことは全く考慮されていませんでした。つまり、物質循環モデルにクラゲは登場しません。
ところがこの数十年来、ミズクラゲをはじめとするクラゲ達が大量に発生し,そのうち世界の海はクラゲの海と化してしまうのではという危惧を抱くようになったのです。黒海、カスピ海ではクシクラゲの仲間が、ベーリング海ではアカクラゲが大量に出現すると魚類などの資源に大打撃を与えました。このことについては、簡単にですが「海の外来生物-人間によって撹乱された地球の海」東海大学出版会 2009年初版のコラム「プランクトン生態系を壊滅状態にする小さな密航者」に書きました。また、最近になって瀬戸内海の播磨灘海域ではミズクラゲに加えてアカクラゲも大量に出現するようになりました(写真)。なぜ増えたのか?またイカナゴやシラス資源に対するインパクトについて評価すべく研究を行っています。
写真 2010年晩春から初夏にかけて大量に出始め,その後も例年のように大量に出るようになったアカクラゲ |
2.プランクトン生態学研究者はクラゲを相手にしなかった
このようなことになる前はといえば、プランクトンを研究してきた人たちの多くはクラゲのことを無視してきました。研究用の試料を採集するにはプランクトンネットを使いますが、採集中にクラゲが混入すると、ネットのメッシュがクラゲの粘液で塞がってしまい採集の定量性が損なわれてしまうのです。そこでもう一度採集しなおしとなるのですが、腹立たしさからクラゲを甲板上にたたきつけたりしたものです。恐らく、海外の研究者も似たようなことをしていたのではないでしょうか。このようなことから、クラゲが海の中でどのようなことをしているのか、専門的に言えば生態系の物質循環での役割について、あるいは魚類などの資源生物に与えるインパクトは?など知識がそっくり欠落していることに気づき始めたのです。クラゲの大量発生し始めたころと時期を同じくしてアメリカ、ヨーロッパそしてわが国でクラゲシンポジウムが開催されるようになりました。わが国では1993年春に日本プランクトン学会主催のシンポジウム「ゼラチン質プランクトン」(コンビーナー大森 信、寺崎 誠)で始めてクラゲが取り扱われました。このシンポジウムを聴いてクラゲの生態学的研究を始めようと思ったのです。そして2004年春に同学会主催による「クラゲの大量発生-現状、機構、生態系への影響と対策」(コンビーナー廣海十朗、石井春人)。こうして決して専門家は多くはありませんがわが国でも研究も始められるようになったのです。
3.どうして、クラゲは大量に発生(出現)するのか? 役に立つのか?
クラゲの研究での主役はこの発生機構の解明でしょう。さらには、それは予知できるのか?もそうでしょう。しかし、対症療法的な発想ですが、防除策すなわち、どのようにして被害を軽減させられるのか?といったテーマが生まれます。このほかにも、クラゲに新たな資源的な価値が探索することもテーマとなります。クラゲが資源生物として獲られ利用されることで減らすことが出来るからです。この件については、「水産資源の先進的有効利用法-ゼロエミッションをめざして」NTS 2005年初版の「やっかいもののくらげ有効利用する試み」という章で整理しました。内容を少しだけ紹介しますと、赤潮プランクトンを殺藻する成分を持っているので赤潮駆除剤として、イセエビ養殖の初期餌料として、もちろん人の食用として。さらには理科教材としても。直接的ではないのですが、専門家以外の一般の方々にもクラゲそのものの存在を知ってもらう、この生物により多くの関心を持ってもらうこともまた必要なことかもしれません。いわば、非日常的な生き物であるクラゲを"日常的"な生き物にして、この利用学を始めようと思ったのです。
4.どうやら役に立ちそうなクラゲ
すでに書きましたように、クラゲには赤潮プランクトンを殺すような成分を持っているのですが、このことに気づいたのは本当に偶然なことでした。クラゲを利用学の一環から、植物プランクトンの大量培養のための栄養(肥料)補強としての有効性を調べました。卒業論文のテーマとして一人の学生に授けましたが、その学生が『ぜんぜん増えません!』と言ってきたものですから、そんな筈は無いという思いで顕微鏡を覗いてみると、なんとクラゲの自己溶解液を混ぜた培養液中では赤潮プランクトンの細胞がどんどん破裂するのです。この成果は論文として発表しましたが(Hiromi et al. 1997. Lethal effect of autolysate of a jellyfish Aurelia aurita on red-tide flagellates. Fish. Sci. 63:478-479)、論文のリプリントの請求が海外のあちこちから届き、結構反響のあったものでした。このことをテレビ局の制作会社が聞きつけ、取材に来られました。細胞が破壊する過程の動画像が「たけしの万物創世記」で「クラゲ漂う海の神秘」というタイトル(1998年8月18日放映)で流されました。この物質はEPA、DHAそしてアラキドン酸といった高度不飽和脂肪酸というものでした(内田ほか2010 ミズクラゲAurelia auritaの自己溶解液に存在する赤潮藻類殺藻物質の分離同定 日本プランクトン学会報 57:87-93)。利用学をさらに進めたのがクラゲの癒し研究だったのです。
5.クラゲの癒し研究の始動
そのきっかけは新江ノ島水族館の飼育員から聴いた話にあります。それは、土曜日になると、サラリーマン風の男性がクラゲの水槽の前に座り込み、しばらく見ては帰るというものでした。癒されているのでは?というのです。果たしてクラゲが本当に人を癒すものか?これを科学的に検証してみたい、とまったく専門外のことに興味を持ったのです。色々と興味を持つことは良いことですが、専門外のことを無制限に広げることは研究者には矢張り歓迎されないことです。かなり勇気が要りましたが、新たな分野を開拓して、そのことが受験生を呼ぶことになればという思いだったのです。まったく持って動機が不純でした。ともかく、この新たな研究が究極的には人のメンタルな面でのリクルートメント、リカバリーに使えないだろうか?と、思いは先走りました。こうして新江ノ島水族館と東京慈恵医大の先生方にお願いをしてクラゲの癒し研究会なるものを作りました。先ずは、クラゲの癒しの科学的検証から始め、その次に人の精神的な癒しの証明をするというように発展させようと思いました。人のメンタルな病からのリカバリーを見る,ということで東京慈恵医大にお願いをしたのです。
次章から癒しの研究の実際についてお話します。